|
2008.5.6火 晴 中国・胡錦濤国家主席が来日 日本を公式訪問するため、中国・胡錦濤国家主席が、本日、6日午後、羽田空港に到着しました。 小泉内閣、安倍内閣で途絶えて以来、中国の国家主席としては10年ぶりの来日となります。 ギョーザ事件、チベット問題、北京オリンピックなどさまざまな課題がある中で、胡錦濤主席と福田首相が、平和的・友好的な話し合いのもとで諸課題が前進するよう、願うものです。 過去に日本が中国に攻め込み、中国民衆に戦争の大きな被害を与えた歴史があり、一九九八年の日中両党会談で、日本共産党の不破委員長(当時)は、江沢民主席(当時)との会談で、日本共産党から、日中関係の五原則を提案しました。 日本共産党は、この五原則の立場で、日本と中国の平和的な関係、アジアの安定した平和関係をきずくために、努力したいと表明しています。 日本と中国との関係の5原則 一、日本は、過去の侵略戦争についてきびしく反省する。 二、日本は、国際関係のなかで「一つの中国」の立場を堅持する。 三、日本と中国は、互いに侵さず、平和共存の関係を守りぬく。 四、日本と中国は、どんな問題も、平和的な話し合いによって解決する。 五、日本と中国は、アジアと世界の平和のために協力し合う。 10年かけて来日した、唐僧 鑑真和上 漢字、仏教、さまざまな文化、技術など中国から渡来したもの多くが今も、日本社会に定着しています。 唐招提寺 唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。 写真/唐招提寺の屋根 多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。 写真/ 鴟尾( しび 天平時代) 現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。 鑑真 仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う必要がある。戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、僧尼の間で誓い合うものを「律」という。律を誓うには、10人以上の正式の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う必要がある。奈良時代に入ると、戒律の重要性が徐々に認識され始め、授戒の制度を整備する必要性が高まっていた。栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため渡唐し、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた。 栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、弟子に問いかけたが、誰も渡日を希望する者がいなかった。そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。 日本への渡海 最初の渡海企図は743年夏、そして2回目、3回目も失敗に終わり、その後、鑑真一行は福州から出発する計画を立てたが、この時も鑑真弟子渡航阻止を役人へ訴えたため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗する。 748年、栄叡がふたたび大明寺の鑑真を訪れ懇願、鑑真は5回目の渡日を決意するが激しい暴風にあい、14日間の漂流の末、はるか南方の海南島へ漂着し失敗。 さらに、時の玄宗皇帝が鑑真の才能を惜しんで渡日を許さなかったために753年に遣唐使が帰日する際、遣唐大使の藤原清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた副使の大伴古麻呂はひそかに鑑真を乗船させた。11月17日に遣唐使船が出航ほどなくして暴風が襲ったが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、12月20日に薩摩坊津に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことをできた。 日本での戒律の確立 754年(天平勝宝6)1月、鑑真は平城京に到着し、聖武上皇以下の歓待を受け、孝謙天皇の勅により戒壇の設立と授戒について全面的に一任され、東大寺に住することとなった。4月、鑑真は東大寺大仏殿に戒壇を築き、上皇から僧尼まで400名に菩薩戒を授けた。これが日本の 登壇授戒の嚆矢である。 759年(天平宝字3)、唐招提寺を創建し、戒壇を設置した。鑑真は戒律の他、彫刻や薬草の造詣も深く、日本にこれらの知識も伝えた。また、悲田院を作り貧民救済にも積極的に取り組んだ。763年(天平宝字7年)唐招提寺で死去(入寂)した。 これらを題材にした 井上 靖 さんの小説「天平の甍(いらか)」は有名です。 |
| << 前記事(2008/05/05) | トップへ | 後記事(2008/05/07)>> |
| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|
| << 前記事(2008/05/05) | トップへ | 後記事(2008/05/07)>> |